憲法9条2項に「国の交戦権は、これを認めない」とある。
“交戦権”とは何か?
興味深いのは、日本国憲法の原案であるGHQ案作成の
中心人物だった、民政局次長だったチャールズ・L・ケーディス
陸軍大佐(当時)の、後年の証言だ。
憲法学者の西修氏の「『交戦権』とは、どんな意味なのでしょうか」
という質問(1984年11月の取材)に、次のように回答している。
「わかりません。
すでに『マッカーサー・ノート』に入っていて、
当時、その意味がわかりませんでした。
いまでもわかりません」と。
原案執筆の当事者も分かっていなかった「交戦権」という言葉。
元々は連合国最高司令官だったダグラス・マッカーサーが、
新憲法に盛り込むべき3つの原則を書いた、いわゆる
「マッカーサー・ノート」の中にあった。
即ち「いかなる交戦権も、日本軍隊に対して決して与えられない」と。
マッカーサーがどのような意味でこの言葉を使ったのか。
今となっては確かめようがないだろう。
憲法学の世界では、「国家として戦争を行う権利」又は
「国家が交戦者として有する権利」という2つの理解がある
(野中俊彦氏ほか『憲法1〔第4版〕』)。
政府の解釈はどうか。
後者の理解に立つ。
即ち「単に戦いを交えるという意味ではございませんで、
伝統的な戦時国際法における交戦国が国際法上有する種々の権利の
総称でありまして、相手国兵力の殺傷及び破壊、相手国の領土の占領、
そこにおける占領行政、それから中立国船舶の臨検、敵性船舶の拿捕
(だほ)などを行うことを含むものを指す」
(平成11年3月15日、参院外交防衛委員会、秋山収内閣法制局
第1部長)と。
しからば、国際法で「交戦権」はどう扱われているのか。
現代の国際法においては、(戦争を含む)武力行使は“一般的”に
「違法化」されている(自衛権の行使としてのみ“限定的”に認め
られる)。
よって、「国家として戦争を行う権利」なるものは、
世界中のどの国においても、認められない。
例えば、齋藤洋氏は交戦権を「過剰な戦力行使を行う権利」
と解している(「国際法学に基づく憲法9条解釈の試み」)。
「(自衛権の行使という限度を超えた)“過剰”な戦力行使」
であれば当然、国際法上、「権利」としては認められないことを
意味する。
端的に言って、「国家として戦争を行う権利」など国際法上、
存在しないのだ。
また、政府解釈が採用する「“伝統的”な戦時国際法における…」
という理解の場合でも、そのような「権利」は、“現代”の国際法では
否認されているようだ。
「現代国際法に、そのような権利はない。
万が一、強制的な措置をとりたいのであれば、
(国連)憲章51条の自衛権の論理にそって、
必要性と均衡性を証明することが必要になる。
あるいは国連安全保障理事会が発した憲章7章の権限を
付与する決議にもとづいていることを証明することが必要になる」
(篠田英朗氏『ほんとうの憲法』)と。
以上のようであれば、9条2項の「交戦権の否認」は、
ただ国際法上の要請を“確認”しているに過ぎないことになろう。
従って、この規定を削除したり、改正したりしても、
それによって「交戦権」が新たに、わが国に“だけ”認められる訳
ではない。
よって、9条改正の“焦点”は、やはり2項の
「戦力不保持」規定に絞られる。